『迷ったら“心が躍る”道を選ぶ』
LITA・代表取締役社長 笹木郁乃さん【前編】
誰しも迷うキャリアの決断。先輩たちはいつ、何に悩み、どう決断してきたの? 現役で活躍し続ける女性たちに、これまでのキャリアの分岐点と、決断できた理由を語っていただきます。
今回は、PR代行事業やPR塾の運営を手掛ける株式会社LITA、代表取締役社長・笹木郁乃さんにインタビュー。人生観を変えた子ども時代のエピソードから、PRの仕事に出会うまでのストーリーを伺いました。
笹木郁乃さん
株式会社LITA
代表取締役社長
1983年、宮城県生まれ。山形大学工学部卒業。愛知県の自動車部品メーカーに研究開発職として勤務後、寝具メーカーのエアウィーヴや鍋メーカーの愛知ドビーでPRを担当し、売上拡大に貢献する。2016年に独立し、2017年にPR会社(現・株式会社LITA)を設立。企業向けのPR支援や、経営者や個人事業主にPRスキルを伝える「PR塾」などを展開している。著書に『SNS×メディア PR100の法則』(日本能率協会マネジメントセンター)、『0円PR』(日経BP)など。
小学2年生で死を意識
後悔しない生き方を追求してきた
- ー 寝具メーカーのエアウィーヴや、「バーミキュラ」で知られる愛知ドビーでのPR経験を経て、広報・PR代行事業やPR塾の運営を手掛ける株式会社LITA(旧IkunoPR)を2017年に創業した笹木郁乃さん。 一貫してPRのキャリアを歩んできたのかと思いきや、ファーストキャリアは自動車部品メーカーの研究開発職。理系出身で、「PRという仕事の存在すら知らなかった」と話します。
- 「数学や物理が得意だったので、とくに何の考えもなく、大学は数学科を選択しました。でも、勉強すればするほど『今学んでいることが将来、社会の役に立つのだろうか』と疑問を抱くようになったんです。そんなとき、たまたま、教養科目の一つとして受けた機械システム工学の授業で家電製品や自動車の開発手法に触れ、『この領域なら、数学や物理の知識を生かして社会に役立つものを作れる』と思えた。やりたいことが見つかった気がしました」
- ー そこで、在籍していた理学部から工学部への転籍を希望。前例がない中、自ら大学に働きかけ、面接の設定など周りを動かしていきました。「自分が動けば人生を変えられる」という小さな成功体験になったと話します。 学生時代から明確にあった「社会の役に立ちたい」という強い思い。それは、笹木さんのある原体験から生まれたものでした。
- 「小学2年生のとき、交通事故に遭ったんです。開頭手術まで行う大事故で、『20歳までに後遺症が出るかもしれない』と医師に告げられました。ある日突然死んでしまうかもしれないし、脳の障害で、自分が自分じゃなくなってしまうかもしれない。明日も元気に、今日と同じように生きられるとは限らないのだ、と強烈な焦りが芽生えました。
そこから、いつ死ぬか分からないのだから、時間を無駄にしてはいけない。後悔のない生き方をしようとエネルギーを持て余す日々が始まりました。何がしたいのか分からないけれど、社会にお返しができるような仕事がしたいと思うようになりましたね」
エアウィーヴでの成功体験が
PR人生の転機に
- ー 「今も生き急ぐクセが抜けない」と笑う笹木さん。子ども時代は会社員の父と専業主婦の母にのびのび育てられましたが、笹木さんが10代のころ父が病気で仕事を辞めることに。両親ともに仕事がない状態を見て、子どもながらに「大企業で安定して働き続けなくちゃ」と考えるようになりました。
- 「そこで卒業後に選んだのが、自動車部品メーカーの研究開発職でした。大手メーカーと取引をしている安定企業で給料もいい。大産業の一翼を担うぞ、と意欲十分に入社したのですが、現実は違いました。私が担当したのは、車用シートの振動吸収性能を高める素材の研究。周りには、その道何十年のベテラン研究者がたくさんいましたが、『私もこれからずっと、シート素材だけを研究し続けるのか』と思うと、どうしても心が躍らなかった。パフォーマンスはどんどん落ちて、気づけば、同期の中でも落ちこぼれになっていました。
3年経ったあるとき、会社に行こうと思っても涙が止まらなくなってしまい、『働く環境を変えよう』と決意しました」
- ー 後悔のないように生きよう、自分がわくわくすることを仕事にしようと改めて考え直した笹木さんは、生活者に直接届くBtoC商品の営業職にチャレンジしようと転職活動を始めます。
- 「研究職時代に一番好きだったのが、工場に出張に行ったり、得意先の担当者と話したりする時間でした。営業なら、自分から外に出ていっていろんな人と話せると思ったんです。もう一つは、人々の生活をハッピーにするものに携わりたい、ということ。前職がとてもニッチな素材を扱っていたからこそ、『この商品に出会って生活が豊かになった』と分かりやすく実感できるようなものが、私には向いていると考えました」
- ー ただ、部品メーカーの研究職から未経験の営業職へのジョブチェンジは難易度が高く、40社近く受けてもすべて不採用に…。ただ一つ採用されたところが、当時まだ無名のベンチャー企業だった寝具メーカーの「エアウィーヴ」でした。
- 「2009年の入社当時、従業員は数名で年商も1億円ほど。でも、エアウィーヴは唯一、面接で社長のほうから自社製品のプレゼンをしてくれた会社でした。『このマットレスで日本一の会社になるんだ』と本気で目指していることが伝わってきて、私も右腕としてこの会社を成長させようと思えました。小さな会社を成長させていく当事者になりたいと、とてもわくわくしたのを覚えています」
専業主婦かベンチャーに行くか
究極の選択でPRの道を選んだ
- ー 笹木さんが入社後、5年で年商115億円まで急成長を遂げたエアウィーヴ。広報担当として奔走した経験が、PRとしての原点を作りました。
- 「入って数年は、店頭でどんなに声を張り上げても誰も買ってくれませんでした。一方、隣のブランドには、『テレビの特集を見ました』『雑誌で見ました』と次々とお客さんが入っていく。メディアに取り上げられることがブランド認知には欠かせないのだと、広報の重要性に気付かされました。そこから、広報担当としてメディアにアプローチを重ね、ついに、朝のニュース番組で5分ほどの特集を流してもらえることに。すると、前日までしんとしていたオフィスに注文の電話が殺到し、作っても作っても足りない状況になったのです。一夜にして景色が一変する様子を目の当たりにして、PRの力に圧倒される思いでした」
- ー 当時は、品質保証チームの立ち上げが落ち着き、そのまま品質保証の分野でスキルアップを続けるか、ほかの職種を選ぶかの選択肢がありました。
- 「開発職はお客様やシステムの状況次第で残業が生じることもあり、どうしても時間管理がしにくいと考えました。そこで、子育てが落ち着いたときに開発に戻れるような、キャリアがつながっていく道を選ぼうと、コールセンターやサポート事務などのバックオフィス部門で仕事を続けることにしました。
ベースにあったのは、仕事を中断させず、社会とつながりを持っておくこと。長い人生の中で、これから状況がどう変化するかわかりません。だから、迷ったときには『この道を選べば、その先の選択が広がるだろう』と思う方を選ぶようにしました」
- ー エアウィーヴはその後、事業成長とともに組織規模を拡大。外部から有能なブレーンが次々と入ってくるようになったのを見て、笹木さんは「もう一度、小さな会社を成長させる経験を積みたい」と次なるフィールドに進みます。 エアウィーヴを成長軌道に乗せた立役者だった笹木さん。会社に残る選択肢もあった中、あえて、再び大変な道に踏み出したのはなぜだったのでしょう。
- 「エアウィーヴ時代に出産と育児で、1年ほど職場を離れていました。そのときにはPRチームも複数体制になり、私がいなくても業務が回るようになっていました。『復帰後は、子育てと両立させながら、仕事は時短で適度に続けていこう』などと“お局”のような心づもりでいたんです。
でも、復帰して1~2か月経つと、自分の中途半端さがもどかしくなってしまった。毎朝大泣きする息子を保育園に預けて仕事に来ているのに、その仕事に対して、以前ほど全力のエネルギーを向けられない自分がいました。これなら、息子と1日中一緒にいられるように専業主婦になるか、離れてでも自分が挑戦したいと思える仕事に就くかの二択しかない。どちらかに振り切ろうと悩んだ末に、もう一度ベンチャーに行って、PRとしての実力がほかの環境でも通用するかを見極めたいと考えました」
エアウィーヴを退職後、笹木さんは、バーミキュラフライパンで知られる愛知ドビー株式会社に入社。バーミキュラを12ヶ月待ちの人気商品へと押し上げることに貢献しました。
後編では、バーミキュラのPRを経て独立・起業するまでのお話を伺います。
(→後編に続く)
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写真:龍ノ口 弘陽
取材・執筆:田中 瑠子