『生きることは、自分なりの恩返しを見つけること』<br>野村不動産・都市開発事業部 眞島明花さん【前編】のイメージ画像

マイキャリアストーリー

『生きることは、自分なりの恩返しを見つけること』
野村不動産・都市開発事業部 眞島明花さん【前編】

誰しも迷うキャリアの決断。先輩たちはいつ、何に悩み、どう決断してきたの? 現役で活躍し続ける女性たちに、これまでのキャリアの分岐点と、決断できた理由を語っていただきます。

 

今回は、野村不動産株式会社の都市開発部門でオフィスビルの運営業務を担う眞島明花さんをインタビュー。12人のメンバーを持つマネージャーであり、10歳の長男、6歳の長女の子育てを両立させています。「スローペースで進んできた」という自身のキャリアと、変化してきた仕事観について、お話を伺いました。

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眞島 明花さん

野村不動産株式会社、都市開発第一事業本部 ビルディング事業一部 副部長 兼 事業課長。大学で建築学を学んだ後、マンションデベロッパーに新卒入社。マンションの商品企画業務や販売業務に従事する。2008年、第二新卒として野村不動産株式会社に転職。ビルディング事業部門の営業職として、オフィスビルのテナント誘致業務を担当。2017年より、再開発ビルの事業企画推進に従事し、現在オフィスビルの運営担当。

社会人2年目で体調を崩して小休止。野村不動産と出会った

野村不動産PMO(Premium Midsize Office)やH1O(Human First Office)など賃貸オフィス運営を担う眞島さん。12人のメンバーを束ねるマネージャーとして、お客様との折衝や運営予算の調整など経営業務全般のマネジメントを行っています。 最近うれしかったことは、若手メンバーから「眞島さんを見ていたら、自分にもマネジメントができるかもしれないと思う」と言われたことだと笑います。
「日々落ち込んだり、周りと比べて自信を失ったり。自然体な姿をメンバーにも見せてきたことで、マネジメントの仕事に親近感を持ってくれたのならすごくうれしい。挑戦するメンバーを増やせたらいいなと思っています
もともと建築家を目指していた眞島さん。子どもの頃から絵を描いたり、ものを作ったりするのが好きで、建物の絵や写真をじっと眺めているような子どもだったと言います。
「大きな転機は、高校時代に見た建築雑誌でした。安藤忠雄さんの『本福寺水御堂』に衝撃を受け、こういうものを作る仕事に就きたい、と強烈に思ったんです。苦手だった理系科目を必死で勉強して理工学部建築学科への進学を決めました。でも、早々に、建築家には一握りの人間しかなれないという現実を知ることに…。課題への提出物のクオリティは、優秀な同級生と私とでは一目瞭然でした。大学2年時には建築家以外の現実的な道を考え始めていました」
卒業後は、建物づくりに携わりたいとマンションのデベロッパーに就職するも、体調を崩して2年で退職。半年間の“無職”の期間を経て、野村不動産への転職が決まったときは「拾ってもらえた」とほっとしたそうです。
「転職を考えれば、仕事に就かない期間があるのは不利です。でも当時はそんなことを考える余裕すらなかった。自分は、仕事で高いパフォーマンスを出せない人間なのだと落ち込んでいました。

転職活動では、幅広い建物と街づくりに携わりたいと総合デベロッパーを中心に見ていて、野村不動産はその一つでした。忘れもしないのは、人事担当の方から『どうして前職を辞めたのか』と聞かれたときに、激しく応酬したこと(笑)。当時の大変だった思いを本気でぶつけていたら、応援してくれるようになったんです。今となっては、『自分の意見をはっきり持っている』と評価してくれたのかもしれないなと思います」

オフィスビルは働く人たちが過ごす場。営業で培った視点が企画職につながった

建物のコンセプト立案など企画職を望んでいましたが、入社後に配属されたのはオフィスビルの営業部門。法人のお客様に野村不動産のビルを提案する仕事を、約8年間担当しました。
「やりたいことに一直線…というキャリアでは全然ないんです。企画の仕事がやりたいと言い続けて8年。ゆっくりゆっくり進んできました」
その間、2人の子どもを出産し、計2年間の育休を取得した眞島さん。企画職への異動が叶ったのは、2度目の育休を終えた約半年後でした。
「30代前半で長男の育休をとったときは、周りが活躍している中、自分だけ取り残されていくような焦りと不安がすごくありました。育休明けは半年間、時短勤務を選びましたが、業務時間がすぐに終ってしまって仕事が進まず、保育園の迎えの時間と会議の時間が重なって出られないことばかり。周りのメンバーは『会議は出なくても、大丈夫だから』『早く仕事上がってね』と好意で言ってくれるのに、私は『自分はいなくてもいい。必要とされていない存在なんだ』と捉えてしまって落ち込んでしまう。そんな繰り返しでした」
フルタイム勤務に切り替え、業務経験と実績を重ねることで「この会議には参加したいので、時間を調整してほしい」などと、少しずつ意見を言えるようになっていったと話します。
「私がラッキーだったのは、上司が負荷の高い仕事も積極的に任せてくれる人だったことです。子育て中だからと、先回りした“配慮”をすることなく『無理だったら言ってほしい』というスタンスで接してくれた。期待に応えようと、ストレッチした目標に向かうことができたのは、上司からの信頼があったからだと思っています」
念願叶って就いた企画職では、営業とは異なる「正解のない仕事」に戸惑いながらも、改めて営業をやってきてよかったと実感する日々でもあったと話します。
「営業にも“正解”はないですが、お客様の声をとことん聞いていく中にヒントがたくさんあります。一方、企画職はコンセプト立案から業者の選定まで、自分で決めるべきことがさらに多く、慣れるまで時間がかかりました。

迷ったときの判断軸となったのは、8年間の営業で聞いてきたお客様の様々な声でした。オフィスを選ぶとき、お客様はどんな点を見ているのか、使い勝手の良さをどこに感じ、実際にどう使っているのか。ユーザー視点の蓄積があったからこそ、“その空間で過ごす人”を第一に考えることができました。もし設計者視点しか持ち合わせていなかったら、竣工写真の美しさ、デザイン性だけにこだわった“作品づくり”をしていたかもしれません。

でもオフィスビルは作品ではなく、あくまでもそこで働く人たちの場。やってきたこととやりたかったことはつながっていくんだと感じることができました。これは当社のオフィスづくりにおいて大切にしている『ヒューマンファースト』という考え方とも合致します」

後編に続きます。








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写真:三浦えり
取材・執筆:田中瑠子

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