『新たなチャンスには、その場でイエスと即答』
ユーグレナ・取締役代表執行役員 Co-CEO 兼 COO 植村弘子さん【前編】
誰しも迷うキャリアの決断。先輩たちはいつ、何に悩み、どう決断してきたの? 現役で活躍し続ける女性たちに、これまでのキャリアの分岐点と、決断できた理由を語っていただきます。
今回は、株式会社ユーグレナ取締役代表執行役員Co-CEO兼COOの植村弘子さんにお話を伺いました。
植村 弘子(うえむら ひろこ)さん
株式会社ユーグレナ取締役代表執行役員Co-CEO兼COO
エスビー食品株式会社に5年勤務した後、株式会社一休に17年勤務。エスビー食品では営業・PB商品の企画に従事。一休ではレストラン事業、宿泊事業の営業・営業企画等に従事後、カスタマーサービス部部長、執行役員 CHRO 管理本部長を歴任。2023年4月にユーグレナに入社し、執行役員 CSXO(最高ステークホルダー責任者)兼 人事部長を経て現職に至る。
目次
12年以上愛飲し、個人株主としてユーグレナを見てきた
人生をかけるなら、大好きな会社に尽くしたいと思った
- 微細藻類ユーグレナ(ミドリムシ)の力で「人と地球を健康にする」。そんな壮大なパーパスを掲げ、2005年に創業した株式会社ユーグレナ。飲料・サプリメント・化粧品などのヘルスケア事業をはじめ、サステナブルな燃料の研究・開発・製造などに取り組むバイオ燃料事業、バングラデシュでのソーシャルビジネスなど多岐にわたる事業展開を進めています。
植村弘子さんがユーグレナに入ったのは2023年4月。24年1月からは、CFiO(最高財務責任者)を務める若原智広さんとともに同社のCo-CEOに就任しました。
前職のITサービス企業・一休では約16年間、営業からカスタマーサービスなどの事業経験を経て、CHROとして組織づくりを担ってきた植村さん。もともとユーグレナの大ファンとして12年以上商品を愛飲し、10年以上、個人株主としてユーグレナの成長を応援してきたそう。「ユーグレナは見上げる存在で聖域のようなところ。転職先の候補には入っていなかった」と話します。 - 「ユーグレナの経営メンバーとは、私が一休でCHROをやっていたときに知り合い、ずっと仲の良い存在でした。(ユーグレナで)『人と地球を健康にする』と信念を持って言い続け、可能性に全力で賭ける生き方が好きだったんです。その熱意を素直にすごいなと思いましたし、誰も成し遂げていないことを、最初にやると言って動き始める人はカッコいい。応援したいと心から思ってきました。
一休を辞めるという決断をしたとき、ユーグレナから『そんな大きな決断をしたのなら、ほかには行かずにうちに来てほしい』と言っていただいた。そのとき、残りの人生をかけるのなら、特別に思ってきた会社に行こう、と思えたんです。振り返れば、Co-CEOという役割に就いたことも含めて、運命と縁の巡り合わせだったのかもしれません」
いい商品を消費者に届けたい一心で
ついたあだ名は「破壊者」
- 経営者の父のもとで育ち、子どもの頃から「いずれは自分も経営者になるのだろう」と思っていたという植村さん。転機は大学生の頃に経験した、セールスのアルバイトでした。
- 「家庭教師のセールスとして、ひたすら個人宅に電話をかける仕事でした。保護者の方と『お子さんいかがですか。苦手科目はありませんか』などと会話を重ねていくのですが、それが苦にならず、成績も順調に伸びていった。そこで、どうやら営業が得意そうだ…と気づきました。
当時は就職氷河期真っただ中。普通に就活をしても内定はとれないだろうと考え、アルバイトで営業実績を上げながら、インターンシップにも複数社参加しました。学生と経営者とをつなぐイベントの実行委員も務め、“社会との接点が多く、すぐに実践で仕事ができる”という強みを磨いていきました。学歴では敵わないほかの学生との差別化を図ろうと、自分なりの戦略だったんです。結果、メーカーから複数社内定をもらい、最初に内定を出してくれた大手食品メーカーに入社を決めました」
- 入社後は、営業として小売店に足しげく通い、お客様から信頼を得ながら営業成績を上げていった植村さん。一方で、先輩へのダメ出しも容赦せず、周りからは「破壊者」というあだ名がつくほどだったそう。
- 「日報に、『今日の先輩のプレゼンは最悪です。これでは一生、競合の〇〇社には勝てないと思います』などと書いて先輩を泣かせたりして(笑)。本当に生意気でしたね。
でも、せっかく開発担当の皆さんが素晴らしい商品を作っているのだから、それを全国のエンドユーザーに届けるために店舗に並べてもらうことが私の役割だと、使命感に燃えていました。とにかく現場を回り、いかにいい商品かを伝え続けていかなくちゃ、と。業績も上がり、提案した企画も通るようになりました」
「よりハードルの高い環境で挑戦者であり続ける」
それがチャンスをくれる周囲への恩返し
- 5年で最初の会社を辞めて次の挑戦に向かおうと決めていた植村さんは、その言葉通りに食品メーカーを退職。次のフィールドとして選んだのが、当時社員が20数名だった株式会社一休でした。
- 「一休が運営する高級ホテル・高級旅館専門予約サイト『一休.com』は、私が人生で初めて好きになったインターネットサービス。サイトを見ているだけでわくわくして、いいなぁ、次はどこに旅行に行こうかなぁと夢が膨らんでいくところが好きなんです。
大手企業を経験したあとだったので、これからの成長が期待できるベンチャー企業に身を置きたいと思っていました。そんなとき、あるビジネス雑誌で、これからの期待値が高い会社として上位に一休がランクインしているのを目にしました。利益率6割というビジネスモデルに、この会社は絶対に伸びると確信。ホームページなどを見ても採用情報はなかったのですが、人材は必要なはずだと、これまでの実績すべてを記した書類を送りました。『そこまで言うなら会いましょう』と言ってもらい、26人目の社員として、めでたく採用してもらえることになりました」
- 一休では、レストラン事業、宿泊事業の営業・営業企画、カスタマーサービスのほか、執行役員 CHRO 管理本部長など、事業側、コーポレート側の業務を幅広く経験。M&Aによってヤフー(現LINEヤフー)に買収されたのちの、組織づくりも担ってきました。 一休には約16年半勤めた植村さん。その一休を辞めることは、植村さんにとって一大決心だったと話します。
- 「一休のサービス内容も、お客様ファーストの徹底した考え方も、お客様への向き合い方も何もかもが大好きで、経営陣もいろんな部署のメンバーも最高な会社でした。業績も伸びていましたし、これ以上長くいたら抜けられなくなると思っていました。
CHROとして、『若手にもっとチャンスを』と言ってきた私が、7年同じポジションを務めていて次にバトンを渡せていない。そのことに、言っていることとやっていることが違う、と矛盾を感じるようになったんです。コンフォートゾーンで心地よく過ごしているのではなく、まずは自分が外に出て新たなチャレンジをする姿を見せなくてはいけない。それが、一緒にやってきた仲間へのメッセージになると考えました。あまりに好きすぎて辞める決断は難しかったので、45歳という年齢で区切ることにして、次の転職先を決めないまま、退職を決めました」
- 好きな会社で業績を上げているのなら、組織にもメンバーに対しても貢献できているのでは。辞めることは、植村さんにとっても一休という会社にとっても勿体ないように感じます。そう問うと、「これが自分なりの恩返しの在り方だった」と話します。
- 「私の人生は、できすぎ人生なんです。自分では想像もしていなかったポジションをもらえたから、今がある。たくさんのチャンスに恵まれ背中を押してもらい、周りが作ってくれたものに素直に乗っかってきただけ、という感覚があります。それは自分の力ではなく、ほかの多くの人の力によってできたことです。
そんな人たちに、恩返しをするとすれば、よりハードルの高い環境で挑戦者であり続けることなんじゃないか、チャレンジしてお返ししていかなければバチが当たるんじゃないか。そんな気がしたのが、根っこの気持ちとしてあるのかもしれません」
→「後編記事」に続く
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取材・執筆:田中 瑠子