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心が奮い立つ「名言集」

コツコツと頑張るあなたに!ビジネスで役立つ、「努力」の名言

仕事の目標達成、スキルアップ、家事・育児・プライベートとの両立など、働いて行くうえで、地道な努力は不可欠です。でも、先の見えない努力の日々に心が折れそうになることも。

今回は、著名人が語った「努力」に関する名言をご紹介します。力強い言葉・努力の本質を捉えた言葉の数々が、きっと皆さんの背中を押してくれると思います。

自分を信じようと思わせてくれる「努力の名言」

『私はギャンブルが大嫌い。でも、一つだけ賭けてもいいと思えるものがあるとしたら、それは自分自身よ。』

≪シンガーソングライター・ビヨンセ≫
1981年生まれ、アメリカ合衆国・テキサス州出身。幼少時に地元ヒューストンでガールズ・グループ「ガールズ・タイム」を結成。10代の半ばには、レッスンに専念するため、他のメンバーと共に学校を中退するなど、メジャーデビューに向けて精力的に音楽活動を行う。1996年にグループ名を「デスティニーズ・チャイルド」に改名。満を持して1997年に、コロムビア・レコードよりメジャーデビューする。その後、たちまち全米の人気バントに登りつめる。
しかし、ほどなくして、デスティニーズ・チャイルドは、メンバー個々のソロ活動専念のため、グループ活動を休止。ソロ活動を始めたビヨンセは、2003年6月にソロデビューアルバム「デンジャラスリィ・イン・ラヴ」をリリース。アメリカで400万枚、全世界では1,100万枚以上のセールスを記録するなど大ヒットとなり、第46回グラミー賞で5部門受賞の快挙を達成した。
その後も人気曲をリリースし続け、3rdシングル「イレプレイスブル」は、全米チャート10週連続1位を樹立する。さらに、女優としての才能も発揮。2006年日には映画『ドリームガールズ』で主演を務め、ゴールデングローブ賞とアカデミー賞にノミネートされる。

“ショウビズ界の女王”の名を欲しいままにしているビヨンセ。そんな彼女が語ったのが、


『私はギャンブルが大嫌い。でも、一つだけ賭けてもいいと思えるものがあるとしたら、それは自分自身よ。』という言葉。

幼少時にメジャーデビューを志し、そのために学校を中退し音楽活動に全てを注ぎ込んだビヨンセ。先の見えない不安な日々は何年にもわたって続きました。それは、文字どおりの大きな賭けでしたが、その賭けを支えていたのが、彼女の持つ“強く強く自分を信じる気持ち”でした。


自分の持つ可能性は、人生を賭けるに値する。

うまく行くかわからない中で努力を続けるのは怖いもの。「全てがムダに終わってしまうのでは?」、「このまま続けていてよいのだろうか?」と、ついつい迷いが生まれがちです。
そんな迷いを一気に吹き飛ばしてくれる清々しい名言です。

壁にぶつかったときに思い出したい「努力の名言」

『真剣だからこそ、ぶつかる壁がある』

≪元プロテニス選手・松岡修造≫
1969年生まれ、東京都出身。東宝株式会社第11代社長の父と元宝塚歌劇団雪組男役の母との間に生まれ、8歳でテニスを始める。中学2年時に全国中学生テニス選手権大会で優勝。その後、慶應義塾中等部から慶應義塾高等学校に進むも、自堕落な日々が続き、自分自身を鍛え直すべく高校テニス界の名門、柳川高等学校へ転校する。スパルタ練習に耐える日々を過ごし、インターハイでシングルス・ダブルス・団体戦の全てを制し三冠達成に貢献する。その後、世界的名コーチのボブ・ブレットに練習を見てもらった縁から、「明日にでもアメリカに来い」と誘われ渡米。フロリダ州のハイスクールに通いながらハリー・ホップマンが創設した名門テニスクラブでレッスンを受けることとなる。その後、腕試しに出場したプロ大会で次々と結果が出たことから、大学に進学せずプロになることを決意。プロデビューから3年でATPシングルスランキングでトップ100入りし、1992年には当時の日本男子シングルス最高位となる46位を記録した。1995年には、ウィンブルドンベスト8という快挙を成し遂げ、1998年に引退。引退後は、後進の育成のための指導に励むほか、タレント・スポーツ解説者・スポーツキャスターなどを務める。


そんな松岡修三さんが、自著『松岡修造の人生を強く生きる83の言葉』で語ったのが、


『真剣だからこそ、ぶつかる壁がある』という言葉。

エリート家系に生まれ育ち、容姿端麗。テニスでも素晴らしい実績を残した松岡修造さん。しかし、そんな彼のテニス人生は苦難の連続でした。家庭からの援助が得られず、貧窮に堪えながらの世界ツアー。安モーテルを外国人選手とシェアし、自身は汚い床に寝る日々が続きました。練習相手さえおらず、一人で壁打ちをしている選手を見つけては必死に頭を下げて練習を願い出るも、何度も断られ、侮蔑の目を向けられるなどしたといいます。それでも諦めずに頭を下げ続け、練習を了承してくれる相手がいたら、充実した練習となるよう全力で練習相手を務める。その繰り返しで、次第に練習相手に恵まれ、松岡さん自身の実力も高まっていったそうです。

本気で挑み続けた人だけが直面できる高く険しい壁。その壁を乗り越えようとする日々は辛く苦しいものだけど、それこそが成長と成功の鍵となる。

頑張って続けてきたことが、途中からうまく行かなくなり、思わず手が止まりそうになってしまうことがあると思います。

でも、その壁は、それだけ、真剣に頑張ってきた証拠。これまで頑張ってきた自分を肯定し、壁を乗り越える力に変えられるといいですね。

不遇を乗り切る力をくれる「努力の名言」

『何も咲かない寒い日は、下へ下へと根をのばせ。 やがて大きな花が咲く。』

≪元陸上選手、スポーツキャスター・高橋尚子≫
1972年生まれ、岐阜県出身。中学時代に陸上競技を始め、県立岐阜商業高校時代には800m競技で県1位となる。高校2年時には、岐阜県代表として全国都道府県対抗女子駅伝に出場するも、区間順位は47人中45位だった。その後に進学した大阪学院大学では、日本学生種目別選手権の1500m競技で優勝。日本インカレでも、1500m競技で2位、3000m競技で3位と好成績を残す。大学卒業後は、教員の選択肢も検討していた中、小出義雄監督率いるリクルートに入社。日本代表クラスの選手が揃う駅伝チームで切磋琢磨する。その後、小出監督が積水化学へと移籍したのを機に、チームメンバーと共に積水化学へと移籍。ほどなくして、マラソンへと転向すると、2000年のシドニー五輪女子マラソンでは、当時の五輪新記録を叩き出し、日本女子陸上界初となる金メダルを獲得する。同年、これらの功績により国民栄誉賞を授与される。キャリアの後半は怪我との戦いとなり、2008年10月に現役引退を発表。
引退後は、日本陸上競技連盟常務理事、スポーツキャスター、マラソン解説者、大阪学院大学特任教授などを務める。


そんな高橋尚子さんが高校時代の陸上部の恩師から送られ、大切にしてきた言葉が、


『何も咲かない寒い日は、下へ下へと根をのばせ。 やがて大きな花が咲く。』という言葉。

大きな花を咲かせるためには、それを支えるためのしっかりとした根を張らせないといけません。
だから、結果が出ない時期でも、諦めずに地道な努力を続け、長く長く根を伸ばし続けることが大切になります。

もともとは、元三洋電機副社長 後藤清一氏の言葉ですが、長距離ランナーの心の支えとなる言葉として、歴代のコーチたちから選手たちへと語り継がれている名言だといいます。

結果が出ない時期でも、「今は根を伸ばしている時期」だと信じて黙々と走り続ける。そんな心持ちで困難に立ち向かってみてはどうでしょうか。

構成:Be myself 編集部

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