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マイキャリアストーリー

『任されていると思うから、人は自ら動いていく』
資生堂インタラクティブビューティー株式会社 企画管理部 野田裕子さん【前編】

誰しも迷うキャリアの決断。管理職として活躍する女性はいつ、何に悩み、どう決断してきたのか。キャリアの分岐点と、決断できた理由を語っていただきます。
今回は、資生堂インタラクティブビューティー株式会社の野田裕子さんにお話を伺いました。

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野田 裕子(のだ ゆうこ)さん

資生堂インタラクティブビューティー株式会社 企画管理部 企画・財務グループ グループマネージャー
2005年、資生堂に新卒入社。営業、商品企画、マーケティング、広報、商品PRを経て、2021年の資生堂インタラクティブビューティー株式会社設立とともに出向。経営管理・企画・財務・広報・組織風土づくりなど多岐にわたる業務を扱うチームの管理職を担う。二児の母。

目指すはFBI!?“百聞は一見に如かず”のマインドで留学を決意

資生堂インタラクティブビューティーは、資生堂とアクセンチュアによる合弁会社として、2021年7月に設立されました。資生堂グループが進めるDXの加速化を目的に、グローバル全体でのシステム標準化のほか、オンライン上での美容部員によるカウンセリングサービスやDNA検査システムサービスの提供、複数のサービスを一つのIDで使える会員サービスの開始など、幅広くデジタルマーケティング領域も手掛けています。

野田裕子さんは、コーポレート運営全体を見る企画管理部でグループマネージャーを担当。ファイナンス管理や契約管理、会議運営や企業ブランディング・広報業務など、人事以外はほぼすべての領域に携わっています。 合弁会社設立とともに資生堂から出向し、PR部門のマネージャーを経て、今のポジションに就いた野田さん。資生堂という大きな組織から、社員数300人ほどのジョイントベンチャーに希望異動したことで、「ゼロからさまざまなことを立ち上げられる新鮮さがあった」と話します。
「今いる企画・財務グループには当初、広報や企業ブランディングの機能はありませんでした。でも、今の組織の課題と目指す姿、そのために必要な機能と費用感を提案したところ、トップがすぐに聞き入れてくれました。ホームページ一つをとっても、どんどんアイデアを出せますし、企業の魅力を発信するオウンドメディア(公式HPnoteなど)の立ち上げもスピーディに決まっていきました。

マネージャーとして組織づくりに携われたことも、まだまだこれからもやれることがあるんだ、という自信やキャリアの広がりにつながっています」
新卒で資生堂に入社以来、営業、商品開発を経て、長く広報PR部門でキャリアを重ねてきた野田さん。学生のころからビューティ領域に興味があったものの、当初目指していた仕事はまったく違うものでした。
「高校時代に見たアメリカ映画やドラマに影響され、FBIに入りたい!と強く憧れを抱いたんです。その夢を実現すべく大学から渡米し、ロサンゼルスの大学で4年間を過ごしました。
子どものころから、やりたいと思ったらやってみないと気が済まないタイプ。高校卒業後に海外の大学に進学する人は、当時はまだ珍しい選択でしたが、苦手な英語を克服して、世界は広いということを生で感じたかった。百聞は一見に如かずだと、アメリカの大学への進学を決めました」
突然の進路選択に、当初、父親は心配もあって反対していたそう。一方で、「行ってきなさい」と背中を押してくれたのは、祖母と母親でした。
「祖母は、当時としてはかなり珍しい、女性経営者でした。一方で、跡継ぎの父を支える母は専業主婦。正反対の働き方・生き方をする女性2人を見ながら育ち、知らず知らずのうちに、いろいろな生き方があるんだな、と思えるようになったのかもしれません」

日本を離れたからこそ「日本の魅力を世界に伝える仕事」に惹かれた

英語は決して得意ではなかった中での、留学という挑戦。「自分がやると決めたことを乗り越えられた」という経験は自信になり、次のステップに進む原動力になっていったと話します。また、留学して得た学びの一つが、「言葉で伝える」ことの大切さでした。
「称賛する文化が根付くアメリカでは、些細なことでも『いいね』『素敵だね』と言葉にして相手に伝えます。道行く人からも『そのスカートとてもかわいいね』と声をかけられるほど。最初は驚くのですが、言われたらうれしくて、その日はずっといい気分で過ごせます。
日本では、“察する”“空気を読む”という文化がありますが、ポジティブな言葉は積極的に伝えたほうがいい、と思うようになりました。

褒められることで自分の良さに気付ける人もいるはず。マネージャーとしてメンバーを持った今、『この提案は○○なところがよかった』『△△という行動がとれるのは、あなたのとてもいいところ』など、少し大げさなくらいに伝えるようにしています」
アメリカで4年間を過ごしたのち、現地企業や国内外資系企業ではなく、資生堂を選んだ野田さん。そこにも、日本を離れたからこその理由がありました。
「FBI捜査官は本気で目指していたのですが、在学途中に『アメリカの市民権がないと入れない』という条件があることに気付いて…。じゃあどうしようかと考えたときに、自分はあまりにも日本について無知で、海外の友人たちになかなか良さを伝えられなかった、という課題に向き合おうと考えました。
帰国後は、日本の文化の魅力を世界に広める仕事がしたいと思うようになり、その中で日本独自の高い技術を持つ資生堂に強く惹かれました」

資生堂の技術とこだわりを知れたことが大きな財産に

入社後、資生堂商品を扱う専門店の営業担当を経験したのち、3年目に当時の国際マーケティング部に異動。そこでグローバルに向けたプレステージ商品の開発(フューチャーソリューション LX|SHISEIDO|資生堂)を手掛けたことが、のちの広報PRの仕事にも大きく活きることになりました。
「日本の美を体現するようなブランド商品を世界に送り出していこう。そんなミッションを持つチームにアサインさせてもらい、まさに資生堂でやりたかった仕事を担当することができました。
アメリカにいるとき、日本人の持つきめ細やかさや、わび・さびの美意識がとても評価されていることを知りました。そうした海外の人の視点について、たくさん意見を出すことができたのも得難い経験でした」
商品開発に携わったことで、いかに商品一つひとつに資生堂の技術が詰まっているかを実感したという野田さん。商品を手に持ったとき、肌に触れたときの感覚などテクスチャー一つにどこまでもこだわり、パッケージの開け閉めのスムーズさなどでも、デザイナーと完璧を追求していったと話します。
「約3年間のプロジェクトを経て、広報PR担当になったとき、『商品開発を経験できてよかった』と改めて感じました。会社や商品の魅力を伝えることが広報の重要な役割ですが、商品開発のプロセスを経験していなかったら、資生堂の資産や価値を語れなかったんじゃないかなと思うほど。
商品開発では、資生堂企業資料館(静岡県掛川市)に何度も足を運びましたし、研究所の研究員の方や購買調達の担当者と話をして、いろいろな部署と連携していきます。その中で、会社がどう成り立っているのかも理解することができた。商品開発の経験が、広報として、社内外の多くの方とコミュニケーションをとっていく“土台”を作ってくれました」







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写真:MIKAGE
取材・執筆:田中 瑠子

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